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なんかとなんかをつなげて幸せ

人間は電気ヒツジの夢を見るか

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人工無能に必要なものが

  • 話しかけると理解できる言葉を返してくる
  • 10人の科学者が見て8人が違和感を感じない
  • インプットされたものを自分の中で処理して蓄積していくアルゴリズム

みたいなことばかり書かれている

これは人工無能の人権無視だ!!


馬鹿馬鹿しい話ではあるが
人工無能を作っている人間のブログやその作り方
人工無能自体を公開しているサイトの序文を見ていると
どうしても自分の作った人工無能に対してほこりがあるとは思えず
彼らはその作り方に沿って作ってみた結果なんかうまくいってうれしい

そんな風に見えるのだ
実際は違うのだろう
本人に言わせれば確かに以前そういった気分でいたが今は成長した
(もちろん文章を書いた直後の話だから今はたぶんなんにも感じない)
人工無能は~~~と新しい認識を話すきっかけになっていってしまう

だがそうではない
作っている間の心境というものは常に変化せずに
事実としてみられる骨がある

彼らがその人工無能を作っているときの心境を推理するうえでの
推論材料として彼らが作った当時の文章というものが重要になるのだ

つまい、彼らは人工無能を作っているときに
決して人工無能に人間らしさというものは感じはしなかった、と


人間らしさを感じるためにはまず
人間と同じ仕組みを感じさせる概要と
観察すると決定した原因から自分の思っている結果が得られず
なんだか自分の手から離れて行ってしまっていると感じる

という2つの状況がそれを人間らしいと感じさせる
実際、科学者10人が違和感を感じないという状態も

  • その仕組みを反射的に誤解できなかったか
  • 正しく分析した推論が人間のそれとは全く違うか

の2つに反しているかどうかを判断する計算機に過ぎない

今ある人工無能のほとんどは
運用した場合にのみ人間らしさを感じ
開発中には人間らしさのかけらも感じさせない状態であるというわけだ

その意味は
人工無能には複雑さが存在しない
応用がないというわけだ

軸となる簡単な理屈、この場合は
(文節の位置組み換えと言葉の分類維持)を別の言葉に言い換える事が
できていない状態である

人間の熟思考は

比喩 反証 応用(モジュール化)

の順で進行していくわけであるから

この場合人工無能は判定基準として
「人間10人による実施テスト」を隔てなければ
その価値を評価することができないわけだから

比喩でも反証でもない位置にいる
人工無能事態はこの条件のどれにも当てはまらないから
思考としては分散してしまっていると言える

応用することができているものを上記条件から探し出せば
人工無能の考えの中でまとまりをもつことのできている部位が
特定できる
ただしこの特定はサーチライトによって物を探しているようなもの
見つかったとしてもそれで全部だと言えるわけじゃあない

私の考えもまた分散している
これは熟考とはいいがたい


ともかく未来 
人工知能を作る手法が手段と結果の区別がつかなくなったとして

人工無能を作っている時
自分の記憶を作ることを編集しているような気になるのが
正しいのか否か

私はそればかりが気になっている

人間の模倣子を作る人工無能制作の作業は
日記にとってかわるのだろうか
それとも思考にとってかわるのだろうか