ケッパーケイパーチリペッパー

なんかとなんかをつなげて幸せ

全体像を知らずに正しい選択をする事は可能だ 「時と場合による」なんて言い訳は作り話だ

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寝ぼけている時
疲れている時
酔っぱらってまともに歩けなくなってしまっている時
暑くて頭がまともに働かない時
歳をとって四肢がうまく操れなくなってしまっている時

私はどのような行動をとるのか


ドアを音を立てて閉める人がいるだろう
聞こえる距離でも大声で話す人間もいる
前が見えていないのか壁にぶつかったりしながら歩くこともあるし
皿をしまう時にその横にあるコップを落として割ってしまう

事がいつか一度はあるだろう



その時
私はいつもとひとつだけ違っていることがある

普段はきっとそんなことしているわけはないし
毎回毎回細かく考えながら動くわけじゃあない

それでも私は道を歩く時壁の突起物にぶつからないように
右か 左か どっちによっているのかをなんとなく考える

路の全体像を把握しようとするのが目的であるわけじゃあないし
ぶつかることを心配してそうしているわけでもない

それでも壁にぶつからない方法
路の右か左に寄っていく想像をする

私はへまをしない時、常に自分の行動をベクトルとして見ている



戸棚にコップを割らないように皿を割らないようにとする時も
きっと私はコップでも皿でもない空間を考えていたし

ドアを閉める時もドアの事は考えずにドアの進むスピードを強弱する


自分の行動をなんとなく決めるだけなら
頭がどれだけダメになっていても感覚で作ることができるとする
できるとして私は。

声を出す時にそれを思い出すことができるのだろうか