ケッパーケイパーチリペッパー

なんかとなんかをつなげて幸せ

振り返り続けると回転する

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物を作る時にどうしても止めたくない。
考えを停止させればそれは一応正しい事実を見ることができるわけで
ミミズがのたくる程度には考えを前に進めることができる。

どうしても考えている間に想像した出来事をもう一度
文章に表すためだけに思い出そうとする事が私には難しいのだ。
書いているときに感じた書いたことに対しての印象というものが
おそらく相手に伝わっているのかそれともいないのか
はっきりしないということから私は目を背け続けているようなのだが
結局まじまじとその一瞬の感情は文章に乗らないのだと
視点を合わせてみたところで事実も私もお互い苦笑して終わりになってしまう。 この一文だって実際 誰かと目を見つめあった状態で
真剣に話そうとしたところでフフフッと笑いあって緊張がほぐれてしまう
なんてことがよくあるだろうという別の経験事実を揶揄しているものだと
言っても一体誰が信じることだろう。 とにかく書きたいことが
まるで油でぬめってうまく攫めないのだ。 かけたのかかけてないのか
はっきりしない。 自分自身をただ諭すことだけは湯水のように湧き出でるのだが確実に文章に書いた、読めなければ相手の責任と言えるものの価値がプラチナ価格であるわけで。




それもこれも書いている書いていないに関わらず音を聞くにも
話を考えるにも人に対する態度にもメモを取るその行間の開け方に
至るまで一歩考えを落ち着けて書けば事足りるのである。

だが残念ながら私はそんな一歩手を休めて周りを見渡す事をする
つもりはさらさらない。 そんなことは人生の汚点だ。
だれに見られるよりも恥ずかしく苦もなげにできてしまった日には
私は私ではない。死してなお死ぬことのできない存在価値を失った
抜け殻ですら愛おしいそこになかったことになった果て無い矛盾そのものに成り果ててしまうことになる。

止めず、止まず、思考の連続が説明できないままでもいいから
ともかく相手には連続し続けているものなのだと思わせてしまう
考え方のままで一度とまって考えてみることはできないものだろうか。

とまって考えているというのは一体なにに言い換えることができるのか
言い換えならばいくらでもこじつけが利く。
これは止まったのではなくそれを説明したのだ、と