ケッパーケイパーチリペッパー

なんかとなんかをつなげて幸せ

アンナとこんな 秘密の花園

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考えが常に新しく作られていると仮定したならば
頭から出てきた考えというものはまずあいまいとそれを考えている言葉
つまりたとえば映画をみた直後に限定して考えるならば
それはつまり映画で最も気に入った登場人物の行動を思い返しながら
歩くようなことになってくるわけだが。
この場合重ねてたとえば主人公が弁護士で弁論方法が特徴的
異議あり!!と叫んだ後に正論を並べ立てるとなんとなく士気向上しそう
なBGMが背後で鳴り出す。というようなものであったとしたら
弁護士が言葉 弁論方法とBGMがあいまいなものとして頭に浮かぶ





もちろんBGMは曲だなんて思わない。
テンションがただ上がった感じとしてだけ記憶が呼ばれている。

つまり簡単に見るならばこんな感じがはいずりまわっている
これは両方とも曖昧であるが これがくっついて現実となっているわけだ

この場合二つが同じ曖昧であってはいけない
こんな感じとあんな感じだとこんなとあんなだけで充分になってしまう
もちろん表現上はうまくはないが頭の中独りよがりな中においては
その感じというのが完全に消え行ってしまうわけである。

誰かに伝える場合には感じがあんなとこんなの場を広げてくれる言葉
として活用されるらしく必要になる。
では自分の中で考える「あんなとこんな」は他人に言う「あんな感じとこ
んな感じ」と意味を同じくしているのか。


確かめる気力が暑さでないので次の書きたいことに行こうと思う
最近よく思うのだけれど私の書いている文章はまさにひとりよがりだと思う

文章を書くのにどうしたって同じことを3回書けと言われたらおぼつかない
気が付いたら星に願いを状態だ。「金!金!金!」と三回素早く同じことを唱え出すだろう。


こういう無駄な話もいっしょくた3回繰り返そうとしてしまうだろうしね。
文章としては手堅い表現かもしれないがべつになにもかもすべてを理解
してほしいというわけではなくてなんとなくいつなんどきどんな所であっても理解させようとしなければならない場面で理解させられる確証、つまりはエゴが定型を作ろうと躍起にさせている。

文章書いたら少し戻って読み返しそれをまとめた文を書く
それがいたって簡単シンプルな説明文であったはずだと思う。


とはいえ心境心情文章に書けない行動理由なんてものを
どうやったって書いちゃあまとめ書いてはまとめの方法で
書き留められるとは思えない。「読者に疑いを持たせました」
なんていうセリフに矛盾してしまわないだろうか。
なにかを作ろうとする時にはその行動の進行方法を
ずーっと誤解したままでいることがいいわけだが
あの少し書いたらまとめた文章を書くという随筆文の書き方テンプレは
説明の説明の説明を説明する文章を説明してまとめなければならない事を
想定してないように思えて仕方がない。
まとめたものをまとめたら結局エキサイト翻訳の二度掛け三度掛けになりかねない。もちろんそれに気が付かない人間が愚かだ。つまりお前は愚かだというのならば仕方がないのだが、どうしようもないのだから
その救護策を考えたって馬鹿じゃないだろう。

説明の説明をしてしまうことをなんとか防ぐ説明
端的にまとめるならばそれは説明の対になるものを同時に用意することである。説明抑制、説明じゃない行動によって説明の間を埋める。
説明じゃないことが「あんな感じ」で説明することが「こんな感じ」として想像されるのだ。

想像と想像による記憶
その記憶の一端は確実に文章の書き方として頭に残っていなければならない。まぁわからないが。

説明する行動と説明じゃない行動があればいい。
とはいえこれらは正しそうでまったく間違っている意見である。
経験上そうだ。どうせ正しい考え方でいるときには
決して使われてない考えである。当然だ。 
なんかかっこよくてテンション上がるBGMを想像しているときに
その曲名もジャンルも作者も気にならない
使われている楽器でさえ「なんかびゅいーんなの」とエレキギターの事を言うだろう。びゅいーんと言わずも口から出すのに時間がかかっている