ケッパーケイパーチリペッパー

なんかとなんかをつなげて幸せ

無意識に理屈を処理している

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ふと気が付いた時は一度もないが
私はどうしてもなんらかの考え方に縛られる。
考え方の紐が一度にたるみゆるんでしまうことがあるが
それを動かすことができない。

紐がゆるんでいることはよくわかるのだが
触れる事すらできない紐なのだ

鎖につながれた犬か。
口でつながっている首輪に触れようとしても
なにも変わらない。
彼らはまだいい。 足で首をひっ掻き心に言訳をつけるだろう。
ならば私は芋虫である。



地べたをはい回ることでたまに見受けるのが
「どうしてあの人はあんなこともわからないんだろう」
という夏場、人が密集した駅などで見かける
なんとなく動きに違和感と危険物の香りある人である。

かような人を見ればなんとなく過去に理解ができなかった人物像を思い出す。
神経を疑う人間、と言えば通じるであろうか。
そう、あの育ちと住む世界が違うのだという一言ですべてを片付けると
ほっと一安心できる彼らの事である。

だが彼らは私になり得る。
私もおそらく同じ育ちの悪い手が早い子供だと思われる一面があるだろうし、それを理由に近づくことさえ躊躇われたと教えてくれる人もあった。
ただ単に近寄りがたい 話しかけ辛かったのだと言うが
そうは問屋が卸さない。私の手癖が悪いのと同様に
その考えにも根拠になる紐が結わいつけられている。

人の考えには印象がある。
その印象は常に考えの発起点になり得るものであり
それを否定するに至ったところで、私が考えたことという括りである以上
それを否定するための発起点であったと言えるようになる。

実際私は盗みはしないが、印象として手癖の悪いというのは
ただ悪印象を持っているという意味で使ったものである。
私は盗みをしないが、私は盗みができないのだ。

盗めない紐がどこかにある
紐は比喩ではなく 結果存在するとしか思えないという物だ。
人のものを盗むべからず。
これは多くの理屈を束ね、導き出した結果であろうが
それを結論付けた記憶はどこにもない。

それは道徳心だ、という人もあるだろう。
だが道徳心とは直面した事実に対して起こすものであって
常時生きる上で自分を律するための道徳心とは
まるで自らの中に常に悪があり その悪と直面しているから
道徳心なのだと言わんばかりじゃあないか。
だがそれではおかしい
私は人のものをみたらすぐさま盗もうという発想を持たねばならない。
律せられているからその発想に至らないのならば
少なくとも考えの片一方一端に盗もうという曖昧を感じ
それを否定せねばならない。
認識していないとは それすなわち記憶に残らないというところでは
同じかもしれないが。 気が付かないというのと寝起きで見た夢を
どうしても思い出せないのではどうしたって頭の片隅に残っている
考えていたであろうという確信があるかないかで大きく違うのだ。
夢にはある。だから私は夢をみたことを疑わない。
だから覚えていないだけで見ていた夢がある事を信じない。
覚えていない夢は同じことをただ繰り返すだけの夢だと思っている。
だからそれはつまり4時間「あああああああああああああああ」
しか考えていないとか「丸が四角」を誤解したまま6時間だとか
そういうのだと思う。

そもそも道徳心で否定するのは主観が入っているのに
無意識で起こることがあるとは思えない。

だからまず
盗んじゃいけない紐が私の首を絞め
そして、盗んでもいいのだと気が付き 
道徳心が盗みを止める

この盗んじゃいけない紐がいっぱいあるのか1本あるのか
緩んだりしてら夏の暑さに耐えきれず攻撃的な歩き方をするのか
緩んだらしめなおせないものか 締め直したことがあるような気がするが
なぜ今できないのか。紐をひもが結んでいるのならば網ではないのか
なぜ量があるのに気が付けないのか。
紐が干渉はしないのか

尽きない。