ケッパーケイパーチリペッパー

なんかとなんかをつなげて幸せ

何かをやりながら集中したい行動をやってはならないわけがない

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考え方の根底にはいつでも単純な考えが存在している

その単純な考えは常に意味がわからない
わからないというかそもそも意味がないものをそこに置く

考えの中心たるコントローラーと言えるだろう
マウスの形状からはパソコンを想像することはできないし
キーボード事態も結局スイッチが大量にある謎の機械

つまりどれだけ複雑なものであったとしても
それを想像しながら書くと単純な意味不明なものが書かれる

それをメモすることができればどうなるかというと


メモそのものにはなんの意味もないものが完成する。



と、通常の論理構造ならばそうなるが
単純なメモの羅列になんらかの規則性が保管されているはず
キーボードとマウスにしても
キーボードから押すことだけは見ることができる。
問題はそのキーの量がネックになったということと
そもそもそのことを考えてはならないという情報が
混在しているという点にある。
つまり、ある恐怖体験をすると
単純な3つの点をみるだけで顔に見えるという状況を
作り出すというものと同じだ。

3つの点にはなんの情報も含まれてはいないが
畏怖させる情報を記録するというとその点3つを記録するほかない。

記録する方法が見つからないでいる以上は
何もできないわけだが、残念ながらそれでは記録しているという
自負すらも存在しなくなる。

記録できない、方法がないとはいえ
確定しているのはその単純で意味を読み取ることができない
文章、画像、それに準ずる情報であり、それをただ
書き留めるという行為に発展する。

発展した後で結局読むことができない
という結論は常に発生するが
それによって記録しているという自負という
記録の成功失敗にかからず存在している言葉を
引き出すことには成功する。

言うなれば不確定性原理における観察することによって
引き起こしてしまう影響というもののみを起こしているわけである。
(実態に触れる事には成功していないため)

では先ほどの無意味な情報、単調な情報という物が
観察しているという事実だけを作り出しているというならば
単数の情報の表題にこそ意味がある様になるわけである。

そこに必要以上の情報を求めさえしなければ
それほど正確な記録というものも存在しないだろう。

これはいうなれば報道という形と類似する。
内容のない情報とそれを報道するに至った結果のみによって
構成されているという発表内容を想像するのはたやすい