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なんかとなんかをつなげて幸せ

文字を一言一句間違えずに覚えるためには結局なにを覚えるべきなのか

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曖昧の元をただせば感情である。
曖昧なものとはなにか説明せよ、と言われれば
具体例として尤もらしいのは感情的な論理であるだろうし
曖昧というのが具体の対義語であるからと言っても
その対義語からは関連を量ることができずその言い換えを見つけ出すこと
は困難だ。 と、いうよりもそもそも言い換えが見つけられない
という答えに至るまでの過程が感情を笠に着た曖昧であるのだ。

今まで感情から言葉が出ている。という単純な環境系を信じ
つい頭の中では言葉と曖昧は非常に密接な関係を持ち
片方が少しでも動けば片方も即座に動く、機敏な信頼関係を
想像してはいたが、どうやら曖昧と言葉はそんなことはないようだ。

そもそもその二つが関係あるのはただ一点。
記憶を思い返す時のみであり、リアルタイムに更新される精神状態を
常に思い返し続けた場合その規則性は崩壊する。

「今なにを思ったか」

という疑問は思考においてイレギュラーなのである。

もともと言語とその意味合いであるはずの曖昧は
一切関係のない情報であり、思い出そうとするたびに
その言葉の意味は大きく変化を繰り返す。

さっきまでやっていたことを思い出そうとやっきになったとしても
そのアウトラインたるなんとなくの方法が言葉としてただ
思い起こされるだけであり、その時の判断を行おうとした根拠や
次になにが起こるだろうかという危機感のようなものは
決して思い出すことはされない。
その状況にいた本人であったとしてもその場の状況を知ることはないのだ

物事は考えるだけではだめだ、行動しなければ意味がない
と言われる所以はここにある。 そもそも経験は蓄積されない。
魔術の儀式のように一度一線を越えたということが
その超えた一線の内容を記憶させることはなく
一度やってしまった出来事を何度も繰り返しても
その記憶は一つも頭には残ってはいない。

それでもたぶん私は今までやってきたことがあって
誇れる事をやったし その証拠だってあるんだ。
いい大学に入ったし いい資格も取った
その記憶があるのだから今言ったような経験が積み重ねられない
という考えは少し違うと思う。というような考えに行きつくだろう。
即座にだ。

だが事実は事実だと強弁する姿は常に人と話している状態である。
つまり、言葉を使ってしか表現できないのだ。
その時の感情をそのまま記憶から呼んではいない。
その話弁の最中、感情は常に今作ったものであり
そして忘れていくものを作り続けている。