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なんかとなんかをつなげて幸せ

言語への仮説

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言葉は知っているから認識できる。脳はすごい
言葉が認識されている仕組みは大体こうだ。
もしくは子供のころに習ったから。


屁理屈こね回すことしかできない私が
その屁理屈を作っている地盤がどんなものだか知らずに
好きに考えているのが不安になった。

地動説を知る前に地球平面説の挿絵をみて
世界の端っこが底なしに暗いと思い込んだあの時の感覚に
よく似ている。おかげで今でも引きこもりがちだ。

私には、ついに言葉すら引っ込ませろと感覚が決めたんだろうか。一言も喋らない進化を遂げてしまうんだろうか。
(アーケステディズムだった場合)


とひとしきり落ち込んでみたら朝起きた時閃いた。
私はどうやらトイレに行きたくなって起きたようで
必死にその閃きの感覚をまとめるとその用例は
トイレのレバーであった。

言語を伴うまでの工程仮説はこうだ。
トイレを使いたい私がいる。

私はトイレのふたを開ける。
私はトイレのレバーを下げる。

なぜか便座を下げようとしない私は
この時トイレという閉鎖されたものに
それぞれ別の行動を見出している。

開けると下げる。

この開けると下げるにはそれぞれトイレの気持ちになって
考えた場合の開け方と下げ方が容易にイメージされる。

開けることを想像するときその行動を言葉にし説明しよう
とすれば私はその形も知らぬトイレの蝶番を透視する。


このトイレへの行動は蝶番が回転して開くイメージと
混同されていて、決して腕を使って開けなければふたが
開かないとかレバーが下がらないという考えはない。

トイレの気持ちになって考えたイメージを
トイレから探して実行することで私はトイレの
レバーを下げるのだ。


だが私はこの時トイレのふたも開けている。
私のトイレへの思い入れは現段階において
どちらへ興味が向いているかはわからないからだ。

つまり、ふたを開けている時ないしレバーを下げている時私はトイレのなにか(ふた)とトイレのへんなの(レバー)の区別がついていない。
それを隔てているのは私がトイレに感じている
思いやりだけだ。だから便座と便器が2つ違うものだなんて夢にもおもっていない。 トイレだと思っている。



どうしても説明したいことにたどり着かずトイレについて
力説してしまっているが、

これはトイレ以外の物にも言えるわけである。
トイレの部位を私は理解せずに使い分けているのならば
ペンの部位も改札の部位も部屋の部位も理解せずに
使い分けているのだ。

なら、言葉の部位だって僕はわけがわかっていない。
言葉の部位はすなわち単語1つだ。

行動の記憶としゃべっている記憶が別の物なのは
なんとなくは聞いたことがあるけれど
使っているトイレと言葉でいうトイレは同じものを
示してはいなかった。


言葉は”言葉”の気持ちになった時にされる
イメージが毎回バラバラだから話せている。
それこそ私たちは語彙の数だけ言葉への印象が
変わり続けることで言葉を話している。


言葉にする前にはそれを行動で起こしている自分を
想像してから話すわけだから、その行動もまた
行動を起こす部位の親単語からスタートしている。

親単語であるなんらかの言葉もまた親になる単語を
持つわけだから、言葉は遡ればどんどん大きくなって
曖昧でわからないなにかという共通の物にたどり着く。


部屋の中と限定したり会話にとある前提があるまま
話せることからも言語を呼び出す時に共通の名もなき
部位が言葉にならないまま使われているのは確実だ。

もしも、この共通の名もなき部位によって
言葉というものが説明できたなら
言語を作る工程をどんな物にだって教えられる。

犬にもネコにも
もちろん機械にも意思を伝えさせる訓練ができるのだ。