ケッパーケイパーチリペッパー

なんかとなんかをつなげて幸せ

音読すれば記憶量が増えるのは真っ赤なウソ!音読している時は記憶できていない気さえする。

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音読することは普段ならほとんどありえない。
1人で本を読もうとするときならばなおさら
それを音読し、読み聞かせることを読書とは呼んでいない

だがただ黙読する時よりも
声に出して読み、話し手の気持ちをくみ取り
それを書かれている文章の流れに沿って声の表現へと反応させる
ただ頭の中で読んでいる時よりも
声に出した時の方が多くのことを考えようとすることになるだろう。


それは例えば話し手の声の高さであったり
自分の声を聞いてこれは激昂する直前の打ち震えるお道化だと感じたり
書かれている話題の変化から話し手はおそらく一日休んでから
冷静になり書き直したのだろうと推察して幾分落ち着いた声に戻したり

声の表現では本に書かれていることが
作者の座っている椅子とペンと書き物机が
もしくは古い家屋で頭を掻き毟ってフケを落とす探偵の立っている
石畳が常に見えている。 雨が降っていて寒いかもしれないことは
忘れても雨から逃れて家屋に入ってこられた安心感を見逃すことはない。


だが、読み終えても

なにひとつとして僕は内容を覚えていない。

いつも読む本と違ってなんにも頭に整理されておらず
その項を読み終えたことだけが常に頭に残っている。

それはそうだ。
僕は書き手の気分になって話し手の心を読んで
ただ書かれていることはすべて知っているものとして声に
出しているのだ。

記憶には残るはずもない。
なにせそこで声に出していた間
僕は読みたかった本を知っていた。

それにたとえ知らないことであっても自分の生活を
なにがあったか思い出そうとしないで思い出すことなんてありはしない。

今日一日の出来事を
朝昼晩の項にわけ、時刻による行数にし
文章の単語が居た場所を無駄に過ごした時間を
文章のうちで理解できた部分なんていう分け方して
思い出そうと考えなくても
ただすらすらと口から答えが出てくるのならば
本はただ読むだろう。


僕が本を書き手になって読んでいる間、僕は本の中にいる。
本の内容を思い出すのなら本の中の日付けと時間と気候を
思い出そうとしなければ記憶の引き出しは開かない。

どこかで音読する記憶法は受験に最適!東大も夢じゃない!
みたいな書き方をされている本があったが
あれは一概には言えない。

音読は右脳による行動持続の枠に入る。
試験問題として聞かれれば
もしも解いた経験のある問題で
かつ音読した記憶につなげられるのならばいいが
解いた経験のない問題を解けるようになることが
記憶術の最善手である。

音読記憶は眉唾物だ。