ケッパーケイパーチリペッパー

なんかとなんかをつなげて幸せ

想像を共有するための基本規格は巨大な空間から始まる説明というルールである

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広い空間は用意するのが困難で
持ち歩くこともできない。

身近な建造物で広いものがあったとしても
それは公共のものであり決して記憶できるほど自分の物で埋め尽くす
ような機会には恵まれたりはしない。

だが、
それがもしもある用途に使われている志向性のある巨大な空間であるとすれば
コミケだったり博物館だったり美術館や学園祭でもいい
それは大勢が同じ目的を持ち編集された限りある巨大空間を
個々自分のものとすることが可能になる。

それぞれ確かに自分のものとして持ち帰ることはできないだろう
だがそもそも持ち帰ろうとすることは
その巨大施設においては不要な発想であるという
共同の思想によって安定している空間である。

たとえばマーケットで黒のシャツが並べられている棚に
ピグモンの書かれた柄物Tシャツがぐしゃぐしゃにされて置かれていたら
だれもがそのTシャツは誰かが不用意に持ってきて
返すのを億劫だとしてそこに放り出したのだと感じる。

他人の空間においてその棚が黒のシャツを置くための棚であると
自然に考え思いつくことができるのである。

これをコンパクトに個人で持ちうる巨大空間にしたい。
それは普段いる場所とその巨大な空間にいた時の気分の差を
パッケージ化することで個人の巨大空間を作ることができる。

そこは自分だけの記憶倉庫にもなるし
イデアを保管しておける場所でもある。


巨大な空間でのルールは
他の天井が低いことを前提とした想像と違い
天井はそびえるほど上に(それが普段の考えの上限)
壁はなにか描いても床に届かないほど広く
いつもどおり私と同じ目線になにかものが置いてある

そう、巨大空間を想像するという規格は
物をたくさん入れられることには強みを持たない。

巨大であるが故に自分の見られる視界が変化することが巨大なものの強みなのだ



参考画
f:id:takasaryo:20140719233635j:plainf:id:takasaryo:20140719233629j:plainf:id:takasaryo:20140719233632j:plain


私は