ケッパーケイパーチリペッパー

なんかとなんかをつなげて幸せ

仲睦まじい男女が言いたいかっこよく深い別れのセリフ

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人を好きになったら一途になってしまうからという考えを持つ人間がいる

自信の行動の客観性とはどのようにして保たれるのだろうか


私は男だ
私は日本人だ
私は社会人としての適性を持っている
私は連続した行動を持った人間である


という類の複数条件は重ねる度に初めの条件が消える
条件が増えていくことで「私は男だ」の意味が変わっていくのだ
消えはするが私は男であることには変わらない

私は男だが私は女々しい男で私は男ではなく私は男としては意気地がない男

と男にもいろいろある意見の中をさまようことになる
幸せな男だというのがないのは私の趣味だ


結局のところこの話は言葉として出てきた理由には一つとして正しいものは
ないのだということに決着する

だがその言葉を作って出したものも間違いであることになってしまう

言葉の信頼性はここでループすることになるわけだが
ここで手がかりが尽きたわけではなく
大抵の場合考えを一度捨てて考えなおすことをすればなんら問題なく
正しい答えを導きだしてしまう


同じ出来事は矛盾している
同じことを同じ手順で考えだしたはずであるにも関わらず
片方は考えがつっかえもう片方はするりと片付く

たとえそれに原因が判明したところで
その原因は決してその手順問題にかかわってくることはなく
ただ新しい因果としてこれはこういうものであるからしかたないのだ
と納得するとその考えは終息することになってしまうのだ

それはまるで人間の思考が何かを考えだすためのものではなく
足りない物を導き出すために考えさせられたとでもいうようにだ

人間は考えている間決して客観であることを心がけることなく
その客観性を保ち続けているわけだ
なれば人間は自己の客観性を一体どこで保っているというのだろうか

それは人間を覆い包みこんでいるような状態で
決して思考というものが客観性を目視することはなく
ただ、自分自身の時間と状況がその客観性を作っているようにしか見えない

客観する時、人間の脳は使われるという状態にありながら
一体どうしてその客観を説明することができよう

どう見たって上から落ちてくるボールを
反射的につかもうと躍起になっている状態で
つかめたことになんらかの理由を導き出し
それをさもえらく正しいことのように言っている

客観的意見、自己を遠くから眺めものとしてとらえる思考においては
それが時間を必要とすることにほかならず、議論を戦わせるような
主観的瞬間的な思考現象を持ってその信頼性を納得することは
できないのではないだろうかと思う

短くいうなれば
人を好きになったら一途になってしまうからという理屈は
客観的意見であるからして
2人でいる時には決して口に出すべきではない別れの言葉であるというわけで