ケッパーケイパーチリペッパー

なんかとなんかをつなげて幸せ

文章を理解するうえでは常に論理的思考が頭で並んでいる

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...

f:id:takasaryo:20130925100856j:plain


「リンゴが市場で売られている」
「私は店主に金を払うとかごを受け取った」
「袋をくれ、というと彼はもう一つ籠をくれた」
「私は籠を籠の上に重ね意気揚々と家に帰った」





登場人物の”わたし”の感情表現における論理的思考が
行われる。 リンゴと籠と市場そのものに対しても論理思考も
当然あるにはある。

つまり、袋はないのだ。
この事から得られるものを明確に答えろ
といわれればただ単純になにも考えず

心理テストか
文章読解の類か
同情をひく日記か
ただのメモ書きか

とにかく平和な思考が頭をめぐる
これも結局は自身の居場所からめぐらせた状況判断を行う
論理的思考であると言えよう。



残念ながら正確には論理的思考ではない。
これらは論理的であるために必要なものが欠けている。
すなわち、論理的思考が常に単数のまま行われているのだ。
世間一般にわかりやすく「難解な考え」とされている
論理的思考というものは差別化を行う前に
両者ともに存在する意識の差というものが
論点たる論理的思考の上に成り立っている。

どちらかといえばその差別をする時の論理的思考
という使われ方の方がよっぽど正確ではない意味合いなのだが
多数決の力は残念ながら強く結びつきのない世の中であっても
1個人の中に存在する大多数によって まるで無垢でない
穢れた発想へと辿りつくのだ。
穢れた発想大いに結構 結局そこに大した違いは存在しない。

つまりなにかを理解する時に発想として正確でないものを
多々使っていたからこそ思考が正しい答えを導かず、わからず、納得いかずという数々の【ず】思考を作ってしまったのだと言えば
それは言い訳の形態をとるものであるわけだ。

思考から離れてしまっているとは人に指摘したところで
受け入れられぬものではあるが。
相手がわからないのだと断定するのには有効である。

「わかっていない、よく理解できていない」と決定するのは
非常に困難であり、常に 理解できていなければその人間の言うことはすべて間違っている 聞く耳をもつ必要のない言葉ばかりを投げかけるものだ。いいやそれはどこか間違っていてたった一言が相手のすべてを否定することにはなり得ない。現に今彼が地球は回っているなんて言い出したら
それは事実であり正しいことに変わらず私の考えは否定されることになる
つまり彼はよくわかっていないと断定することができない。
一部だけでも理解しているところがあるに違いないのだ

と、そう日和見な意見が頭を蹂躙することになる

結局この考えは大きな間違いで
彼が間違っているとか理解しているとか
そうではなく、今この瞬間においては確かに間違っている
ということを観察することに意味があるようなのだ。
今は間違えてはいるが
決してその先に同じ間違いを起こすとは限らない。
彼は正しいことも言う。
つまり相手が間違っていて、理解していないという断定は
同じ理解していない言動を寄り集めるだけである。

彼はこよりの作り方を理解はしていないが
こよりの使い方はよく知っていた。

こういったなんともはっきりしない理屈を作るための情報搾取。

これらは同様に
理解しなければ死んでしまうんだという謎の強迫観念によって
冷静でなくなってしまうという事態を作ることも裏付ける。

冷静であるという考えは確かに他人から見ればひどく頭のよさそうな
それでいて自分を保っているというアドバンテージのある地位的な
考えも備えた球のような付け入る隙の無さを感じさせるが

結局やってる本人からしてみれば
どんな時でもひどくのんきであり続ける行為に他ならない
相対的にのんきであることで冷静を保てるわけだから
呼び起こす時、のんきであることを忘れている我々は
せっぱ詰るとのんきではいられず冷静であることも同じく忘却する