ケッパーケイパーチリペッパー

なんかとなんかをつなげて幸せ

むしゃくしゃするのが癖になる ついついやっちゃう怒っちゃう

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最近考えが鈍化している

ドンキーという言葉が非常に似合うステキな頭となっております


腑抜けているという状態は怒りっぽい状態の言い換えではないか
なんていうしょうもない、品がない、若々しい考えに囚われています



それもこれも人に説明しようとすること自体に
なんだか嫌気がさしてしまっていることが原因と申しましょうか

物の見方が大きく変わったと言えば言葉はいいが
結局所ものの見方なんてものは大きく変わることに価値がない

そういう考えが頭から離れていかないわけでして
私は考えを考えようなんて無精な考えには決して行きたくはないわけです。

それでもこの見方が大きく変わることは人として当然だという
なんとも視野の開けた考えは小指の先に収まるものを
集めて並べて喜んでいるような私にはただ邪魔なものなのです

それでも頭というものは何とも予想がつきにくいもので
いつの間にか私はその視界の開けた柔らかい考え方という
袋小路に迷い込んでいたようでして。

他の方ならいざ知らず
人と関わることは私だけじゃ私を罵倒しきれない時
なんて投げやりな時にだけ欲求がもたげる人間ですから
柔らかい考えは常に私を許容するためだけに使われることとなってしまっているようであります。

で、ありますからして
なぜだか怒りやわがままの表現が
今までになく巧くなってしまっているようで。

歩きながら人にぶつかったら
「どこみてんだこんちくしょう」と言ってしまうに違いありませんでしょう心の傾き加減となっております。

今まで人にぶつかったことなどというのは
この方生まれて一度もありゃあしませんが
きっと今ならば
イヤ今だからこそなにかどこかだれかにぶつかってしまうんだろうなとそう心配が終わらないのでございます

時に古い作家などというものは
よくいろいろのものにぶつかっては
ヤアイライラするだのああ、悪いことをしただの
とりあえずさも当然のように殴りかかって喧嘩して傷だらけに
なっているだのを随筆文なるものに書かれてはおられますが

ああもたくさんぶつかるぶつからないの話題が
作家同士にやり取りされているのをみれば
かの有名な作家全員は人にぶつかって不注意極まりないのだ
というのが 不注意極まりないのは偉いことなのだ
とそう変わっていき 不注意極まりなくいろいろなものにぶつかっていると有名になって偉くなり人ができている才能豊かで
人にやさしく接する破天荒なあこがれられる者なのだ

などと思い込みだす始末、

不注意たる私は子供のころから不注意で有名ではあったが
ここまで今のところ偉くなったためしもなく
それでもこれを否定するは野暮だなあと自身を褒めるのであります


この文章の書き方すげえいい
楽。