文章は長ければ長いほどそれを読もうとは思わない
文章は長ければ長いほどそれを読もうとは思わない
書かれていることが明確でそこになにが書いてあるのか
不正確なくせに見知っていると思い込んでいない限り
絶対に読もうとはしないものだ
もし長い文章はよく読むなんて言うやつがいるんなら
そいつはたいそうな読書家で自分が本を読むことを気取っているに違いない
先ほど私は書かれていることが明確であれば
長文であっても読むことができると言った
読む前から明確な文章などというものは長いくせに中身のない
そう自己紹介していることに他ならないわけだから
不完全な長文であり続ける
表題か内容か どちらにしろどちらか一方が非効率であるのだ
その非効率に正当な評価を経ず 記事に興味を持ってしまうのは事実で
結局読まれるのはいい文章よりも読みやすい文章だ
誰が書こうが淫らな文章には目を奪われ健康記事は慕われる
ダイエット記事に人名がほとんど出てこなかったとしても誰も批判する者
はいないことだろう。読む時の心のあいまいさをこちらがきちんと作って
くれているという安心感がなければ、人は中身が宇宙的内容であっても
きっと読みはしない。有名人が書いたからそれを読むのだというのは
一部の文章だけであり、読まれている文章もその内容ではなく
有名人と一緒にいるような気がすると自分をだます習慣漬けによる
ロールプレイな日課に過ぎないのだ。
ロールプレイついでに私がもし強気で物知りになりたい女々しくモテない男だったとしたらという感覚で文章を書いてみた
文体が少し変わっていたら幸いだ
書かれている人格が少し違う?という気分になることは
彼の言う安心感ある文章に必要な物に似ているような気がする
この安心感ある文章って表現はどこかのエッセイで読んだことがあるが
なるほど彼女は面白いことを言っていたらしい
読んだ当初は引っかかるのに全く理解できなくてイライラしたものだ
このデザイナー風情がという言葉がのどから出かかかったのを記憶している。今ならたぶん言っていたに違いない。
だが結局書かれている人格が違うことで得られる安心感
という感覚は残念なことに建前や理屈によるものだ
人格が違えば文章を読む時の他人の安心感に干渉することが
できるだろうという無意識な妥当性
正しそうに感じてしまうだけも確実に間違っている類の理屈である
同意見だったコラムニスト、エッセイストもおそらく
私の問題と同じものに引っかかっていたのだろう
理屈はわかるが自分の文章に反映できない 仕方がわからない
正しい理屈は心に残るがその発表形態によって
印象は変わってしまったまま残ることになる
正しい理屈と同じものだといえる言葉であったとしても
私は拡大解釈によってようやく同じものだと言える位置にしか
居ないというわけだ
もちろん、他のものが同じくらい間違っているとは言えないわけだが
結局私は間違っているだろうという別の根拠から得た予感を持っている
私は間違いっ放しなくせにすべてあっているような気になっている。